1276年
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 12世紀 - 13世紀 - 14世紀 |
十年紀: | 1250年代 1260年代 1270年代 1280年代 1290年代 |
年: | 1273年 1274年 1275年 1276年 1277年 1278年 1279年 |
1276年(1276 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
カレンダー
できごと
- アウクスブルクが帝国自由都市になる。
- 光長寺創立
- 元軍によって南宋の首都臨安が陥落し、宋が事実上滅亡した。
- 閏3月 - 南宋の遺臣・陸秀夫らが南宋残党や生き残りの皇族を奉じて抵抗運動を開始。
- エジプトのマムルーク朝のバイバルスがヌビアに遠征軍を送り、属国化する。
誕生
「Category:1276年生」も参照
- 3月3日 - ルイ・デヴルー、エヴルー伯(+ 1319年)
- 10月19日(建治2年9月11日) - 久明親王、皇族、鎌倉幕府8代征夷大将軍(+ 1328年)
- 一条内実、鎌倉時代の公卿(+ 1305年)
- 中御門為行、鎌倉時代の公卿(+ 1332年)
死去
「Category:1276年没」も参照
- 1月 - ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ、ウラジーミル大公(* 1241年?)
- 6月30日(建治2年5月17日) - 佐々木泰綱、近江国守護、御家人(* 1213年)
- 7月27日 - ハイメ1世[1]、アラゴン王、バルセロナ伯(* 1208年)
- 11月30日(建治2年10月23日) - 北条実時、武将、文化人(* 1224年)
- 12月2日(建治2年10月25日) - 小笠原長房、阿波国守護(* 1213年)
- 12月30日(景炎元年11月24日) - 兀庵普寧、中国の臨済宗の渡来僧(* 1197年)
- イブン・サイード・マグリビー、アンダルスの歴史学者、地理学者(* 1213年)
脚注
注釈
出典
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- ^ James I king of Aragon Encyclopædia Britannica
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、1276年に関連するカテゴリがあります。