谷秦山
谷 秦山(たに じんざん、寛文3年3月11日(1663年4月18日) - 享保3年6月30日(1718年7月27日))は江戸時代の儒学者、神道家。
人物
名は重遠(しげとお)、通称は丹三郎、号は秦山。
岡豊八幡(現・高知県南国市)の神職の3男として生まれる。17歳の頃、山崎闇斎・浅見絅斎につき、朱子学・神道学・暦学を学び、32歳のとき渋川春海について天文・暦学を学び、土佐南学を大成させるが、45歳の時6代土佐藩主の跡継問題で無実の罪を受け土佐山田の地に蟄居させられる。
土佐南学の学問は、長男垣守、孫真潮にも受け継がれ門下生からは多くの人材が育ち、勤王運動に大きな影響を与えた[1]。
大正8年(1919年)、正五位を追贈された[2]。
谷秦山の玄孫が谷干城である。
谷重遠墓
現在、高知県香美市山田町には、「谷重遠墓」がある[3]。この墓は、1944年11月13日に国史跡に指定されている[4]。
文献
脚注
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