漢口事件
この項目では、南京事件時の日本領事館及び日本人居留民襲撃事件について説明しています。1936年に中華民国漢口で起きた日本領事館警察官殺害事件については「漢口邦人巡査射殺事件」をご覧ください。 |
漢口事件 | |||||||
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北伐中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
日本 | 暴徒 | ||||||
指揮官 | |||||||
荒城二郎 | - | ||||||
戦力 | |||||||
軽巡洋艦1 駆逐艦5~6 砲艦など 陸戦隊約380名 | - | ||||||
被害者数 | |||||||
負傷者多数 家屋150戸損害 | - |
漢口事件(かんこうじけん/はんこうじけん)とは、1927年(昭和2年)4月3日、国民革命軍の武漢攻略の際、一部の無秩序な軍隊と暴民が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件。漢口四三事件とも言う。日本海軍の軍人も傷害や暴行を加えられた。被害は150戸、被害見積額は92万円[1]。共産党の扇動により発生した[2]。日本海軍の水兵と中国の少年との口論を端緒に次第に拡大していったとされる。
事件前の状況
中国の排外運動と労働運動
1915年(大正4年)、1919年(大正8年)、1923年(大正12年)の排日運動は猛烈であったという[3]。1923年には宜陽丸事件が起きて、船長を射殺し、船客も殺害された[4][5]。
1924年(大正13年)12月には、租界ボーイ領事館襲撃事件が起きた[6]。
1925年(大正14年)6月1日にはイギリス租界暴動が起きて、日本人商店がすべて掠奪破壊され、日本人1人が殴殺された[7]。
1926年(大正15年)9月、商店三宜洋行が襲撃され、店舗、倉庫が中国人暴徒に破壊され、商品はもちろん、畳、建具、床板、窓枠までも剥がして持ち去った[7]。
1926年(大正15年)9月、国民革命軍が武漢を占領するころから、盛んに労働者を扇動し、人足や車夫、店員、工場員などに労働者団体を組織的に作らせ、二ヶ月ほどで200以上の団体、会員20万人を唱えた[8]。この労働団体の統制する組織が「総工会」で、共産党員が牛耳っていた[8]。総工会は糾察隊という6尺棒を持つ私兵を組織し、3000人を超えていた[9]。外国人を相手にするボーイなどの組織は「洋務工会」と呼ばれた[9]。
1926年11月、漢口では中国人ボーイや女中、また乳母のストライキと暴動事件が起きた[8]。糾察隊は6尺棒を持って租界を巡回し、三井物産の社員宅にその妻が一人でいたところ侵入し、押入れなどを勝手に開けるなど乱暴をした[9]。
1926年11月20日には、商店の川本洋行が中国人米屋から米俵4俵を届けてもらうと、糾察隊が「日本人には米を買わせない」と妨害し、2-30名が店内に押し入り、ショーウインドウや戸口のガラスが破壊され、商品を強奪し、店の主人は群衆にリンチを受けた川本洋行事件が起きた[10]。
1927年2月ごろから、日本租界外の同文書院付近の支那公園や富豪の屋敷の立ち樹や垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった[11]。やがて日本人住宅にも及んだ。多くは付近の農民の女子供であったが、後には大人も出動し、大っぴらに斧で立ち樹を切り倒した[11]。農民協会で、外国人の境内であろうが、富豪の邸宅であろうが、立ち樹は中国人に授かったものだから当然奪取してよいと教えられたためという[12]。
事件発生数日前に唐生智は日本官憲に対し、イギリス人・アメリカ人の居留民は引揚げを断行したが日本人居留民に対しては十分に保護を行うので漢口に止まるよう勧告を行った[13]。
事件発生
漢口には「嵯峨」、「浦風」、「堅田」が配置されており、情勢悪化に伴って「安宅」や「比良」も派遣されていた[14]。3月30日から上陸が許可されていた[14]。
4月3日午後3時過ぎ(15時45分ごろ[14])、水兵2名が日本租界燮昌路の料亭「妻鶴」の横手を通行中(または漢口銀行付近[14])、中国人の子供から投石され、口論中に30人ぐらいの中国人が食って掛かってき、車夫の一団が水兵を取り囲み殴り始めた[15]。水兵は一人の車夫を突き倒して、近くの料理店「山吉」に逃げ込んだ[16]。たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」とその隣の「浪花食堂」は跡形もなく破壊された[16]。さらに、「日本水兵が中国人を殺した」「車夫がナイフで刺された」といったデマが喧伝された[16]。日本租界北側の平和街に差し掛かかっていた農民協会成立大会の祝賀行列の一団がこのデマを聞いて、日本租界に殺到し、租界の三分の二は暴民によって埋められた[17]。日本人を見れば取り囲んで殴打し、日本人商店は軒並み襲撃された。これらの暴徒の襲撃は徹底的にしかも巧妙に行われた。事件を聞いて駆けつけた田中副領事も、日本領事だと叫んだにもかかわらず、暴行された。南小路から平和街に出る角の理髪店の隣の田村氏の宅では、産後間もない身を病床に横たえていた妻女が、暴徒によって足蹴にされ遺骸は放置された[18]。また、別の妊娠五ヶ月の女性が二階から引きずり降ろされ、殴られて血まみれになった[18]。
16時10分に「嵯峨」艦長は陸戦隊揚陸を命じ、各艦よりの陸戦隊は暴徒を制圧し、上陸員や居留民の救出を行った[19]。
午後4時ごろ、数千の群衆は子供を先頭に立て赤旗を振るい、指揮者の下に喚声をあげて河岸に殺到しようとしていたところ、海軍陸戦隊が空砲を放ち、数発の実弾を撃った[20]。すると暴民は雪崩を打って退却、略奪しつつ租界外に向かった[20]。平和街に接近するや頑として退かず、やむなく陸戦隊は本願寺の土堤に向かって機銃の威嚇射撃を行うと、群衆は逃げ去った[20]。陸戦隊によって租界を追われた群衆は、他国の租界にある日本人商店を襲撃した[21]。また暴徒は放火した[21]。
4月3日夜には日本人25名がイギリス艦ビー号に避難し保護された[22]。同仁病院も漢口から引き上げを行った[22]
日本人監禁
水兵11名[23]、同人会病院の石井小兵衛、三井木行の石田倉之ら民間人数名らは殴打され監禁された[24]。水兵は飲食店にいたところを襲われ、散々殴打されて拉致され、フランス租界外の総工会本部に監禁された[24]。監禁中は足を縄で縛られ、青龍刀を突きつけられ愚弄された[25]。また、当時の中国の新聞にはこれらの監禁された日本人を「捕虜」として報じた[25]。
4月4日朝、唐生智は軍を派遣して水兵を引き取った[24]。唐生智は総工会に対して「日本側に有利な条件を容れさせるための人質なので、そのまま返したら承知せず」と言った[24]。唐生智が人質を日本側に送ろうとしても糾察隊は衛戍司令部を監視して妨害した[24]。総領事が協議した結果、7日夜にようやく取り戻した[26]。石井小兵衛ら数名は4日夜12時に釈放された[25]。
国民政府外交部長の陳友仁は事件の夜に駆けつけ、高尾総領事に対して遺憾の意を表し、当方にて全責任をもって解決すると言った。武漢衛戍総司令の唐生智も来て遺憾の意を表し、租界は中国軍隊にて護衛するので陸戦隊の撤退を要求した。総領事は中国側の誠意を尊重して陸戦隊の撤退を希望し、また中国側は軍隊を租界の周囲に配し、糾察隊とともに群衆を遠ざけ、日本人に危害を加えるな、略奪するなといったポスターを貼るなど誠意があるように見えたので、陸戦隊は一時大正ホールに引き上げた。しかし軍隊の略奪が行われ、直ちに陸戦隊を配備した。本願寺に進入した唐生智の軍隊は木堂内の略奪容疑で、何健の軍隊に代えられ、それも陸戦隊の抗議により、本願寺から撤退した。総工会の代表は「中国人が十人死んだ。発砲は不法だ。衝突の原因を明らかにされたい。陸戦隊を即刻引きあげられたい」など勝手な注文を持ち出したが、総領事のために一蹴された。また総工会は食糧封鎖を強行しようとした[26]。
引揚げ
4月3日、宜昌ではスタンダード石油は店を閉鎖し、アメリカ人全員がイギリス艦、アメリカ船にて引揚げることを決する[28]。アメリカ公使は在北京アメリカ人に対して北京からの引揚げの勧告を行った[29]。
4月4日、日本総領事は在留日本人の引揚げを告示した[30]。4月6日には、日本人婦女子1320名が大福丸と襄陽丸に乗って引き揚げた。その後数回に分けて引き揚げ、二千数百人の在留邦人は5月9日には444人となった[31]。
その後
4月6日、張作霖によりソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索が行われた。
4月12日、共産党を警戒する列強の支持を受けた蔣介石は上海クーデターを起こし多数の共産党幹部を処刑した[32]。
6月末には、中等教育機関東亜同文書院が南兵(国民党軍)第35軍によって占領された[33]。
脚注
- ^ 重光葵 原著 & 服部龍二 編著 2002.
- ^ 「漢口事件解決に関する文書」『日本外交年表並主要文書 下』
- ^ 中支被難者連合会 1927, pp. 112–114.
- ^ 大阪毎日新聞 1923.9.22(大正12)「乱入した支那兵の一隊は忽ち宜陽丸船長を射殺した」
- ^ 中支被難者連合会 1927, p. 119.
- ^ 中支被難者連合会 1927, p. 117.
- ^ a b 中支被難者連合会 1927, p. 118.
- ^ a b c 中支被難者連合会 1927, p. 105.
- ^ a b c 中支被難者連合会 1927, p. 106.
- ^ 中支被難者連合会 1927, pp. 109–110.
- ^ a b 中支被難者連合会 1927, p. 120.
- ^ 中支被難者連合会 1927, p. 121.
- ^ “『支那の声明は信頼できぬ 某消息通談』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- ^ a b c d 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、156ページ
- ^ 中支被難者連合会 1927, pp. 81–82.
- ^ a b c 中支被難者連合会 1927, p. 82.
- ^ 中支被難者連合会 1927, pp. 82–83.
- ^ a b 中支被難者連合会 1927, p. 91.
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、157ページ
- ^ a b c 中支被難者連合会 1927, p. 93.
- ^ a b 中支被難者連合会 1927, p. 95.
- ^ a b “『漢口の租界周囲に群集刻々に増す 同仁病院も引揚ぐ』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、158-159ページによれば拉致された水兵は6名
- ^ a b c d e 中支被難者連合会 1927, p. 103.
- ^ a b c 中支被難者連合会 1927, p. 104.
- ^ a b 田中秀雄編『もうひとつの南京事件』
- ^ “『巡洋艦と駆逐艦三隻糧食を満載して漢口へ 日本陸戦隊撤退を拒絶』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- ^ “『宜昌も引揚げ 英国領事をはじめ 英米人全部が両三日中に』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- ^ “『北京の米人ぞくぞく引揚ぐ 天津方面へ向って』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- ^ 中支被難者連合会 1927, p. 139.
- ^ 中支被難者連合会 1927, p. 149.
- ^ 浅野典夫『図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ』秀和システム、2005年、288頁。https://books.google.co.jp/books?id=WZnWh0irWuMC&pg=PA288&dq=%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%80%E5%88%97%E5%BC%B7&hl=en&sa=X&ei=l3k2T4XqAYiimQX8yqSJAg&redir_esc=y#v=onepage&q=%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%80%E5%88%97%E5%BC%B7&f=false。
- ^ 中支被難者連合会 1927, pp. 153–154.
参考文献
- 重光葵 原著、服部龍二 編著『満州事件と重光駐華公使報告書 : 外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』に寄せて」』日本図書センター、2002年10月。ISBN 4-8205-9477-X。 NCID BA59812973。
- 中支被難者連合会『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』岡田日栄堂、1927年。
- 田中秀雄 編『もうひとつの南京事件 : 日本人遭難者の記録』芙蓉書房出版、2006年。ISBN 4-8295-0381-5。
- (『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の復刻。)
- “『支那の声明は信頼できぬ 某消息通談』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- “『漢口の租界周囲に群集刻々に増す 同仁病院も引揚ぐ』”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1927年4月5日). 2012年2月11日閲覧。
- 日比野丈夫編 編「中国・その周辺」『世界史年表』(第4版)河出書房新社、1997年、189頁。ISBN 4-309-22311-7。 - 発生年月について
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで』朝雲新聞社
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