ヴァフタング4世
ヴァフタング4世 ვახტანგ IV | |
---|---|
ジョージア王ヴァフタング4世のレリーフ | |
ジョージア王 | |
先代 | アレクサンドレ1世 |
次代 | ギオルギ8世 |
出生 | 1413年頃 |
死亡 | 1446年12月 |
埋葬 | バナ大聖堂(英語版) |
王室 | バグラティオニ家(グルジア語版) |
父親 | アレクサンドレ1世 |
母親 | ドゥランドゥフティ(wikidata) |
配偶者 | シティハトゥニ(グルジア語版) |
信仰 | ジョージア正教会 |
親署 | |
テンプレートを表示 |
ヴァフタング4世(グルジア語: ვახტანგ IV、グルジア語ラテン翻字: Vakhtang IV、1413年頃 – 1446年12月)は、バグラティオニ朝(グルジア語版)ジョージア王国の王(在位期間1442年–1446年)。
生涯
ヴァフタングはジョージア王アレクサンドレ1世の長男であり、母親はシュニク公ベシケン2世オルベリアニ(wikidata)の娘ドゥランドゥフティ(wikidata)であった。ヴァフタングは1433年、父アレクサンドレによって弟たちとともに副王に任命された。1442年に父アレクサンドレが退位すると、ヴァフタングは王位を継承し、弟のディミトリとギオルギを副王の座に残した。ヴァフタングの統治は、貴族間の競争と王国の全般的な不安定さによって脅かされた[1]。18世紀の歴史学者ヴァフシティ・バグラティオニによると、ヴァフタングは黒羊朝のジャハーン・シャー(ペルシア語版)によるトルクメンのジョージア侵攻(英語版)にも直面した。ヴァフタングはジョージア南部アハルツィヘにてジャハーン・シャーと接触。激しい戦いとなったが、撃退に成功した。ジャハーン・シャーはその夜に戦場を離れ、タブリーズへと帰還した。
ヴァフタングは1442年にザザ・パナスケルテル=ツィツィシヴィリ(グルジア語版)の娘シティハトゥニ(グルジア語版)と結婚。シティハトゥニとは子供なく1444年に死別。ヴァフタングは1446年12月に死去し、タオ=クラルジェティ(グルジア語版)のバナ大聖堂(英語版)に、シティハトゥニとともに埋葬された[1]。ヴァフタングの後継は弟のディミトリとギオルギが争うことになったが、これはジョージアの支配権をめぐる激しく長い戦いの始まりとなり、最終的にジョージア王国の分裂という結果になった[2]。
参考文献
- カルトリ・ソビエト百科事典, 第4巻, 336頁, トビリシ, 1979年.
- საქართველოს მეფეები, მ. ლორთქიფანიძე, რ. მეტრეველი, 2007 წ.
注釈
- ^ a b Toumanoff, Cyril. "The Fifteenth-Century Bagratids and the Institution of Collegial Sovereignty in Georgia." Traditio 7 (1949–51): 184-185
- ^ Suny, Ronald Grigor (1994), The Making of the Georgian Nation, p. 45. Indiana University Press, ISBN 0-253-20915-3.
外部リンク
- ヴァフタング4世 — ジョージア人名事典
| |
---|---|
ジョージア王国 (1008–1245) |
|
西ジョージア (1247–1329) |
|
東ジョージア (1247–1329) |
|
再統一後 (1329–1490) |
|