レオポルト (バイエルン公)
この項目では、12世紀のバイエルンの君主について説明しています。バイエルン王国(19~20世紀)の王族については「レオポルト・フォン・バイエルン」をご覧ください。 |
レオポルト4世 Leopold IV. | |
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オーストリア辺境伯 バイエルン公 | |
在位 | オーストリア辺境伯:1136年 - 1141年 バイエルン公:1139年 - 1141年 |
出生 | 1108年頃 |
死去 | 1141年10月18日 神聖ローマ帝国 バイエルン公領、ニーダーアルタイヒ修道院 |
埋葬 | 神聖ローマ帝国 オーストリア辺境伯領、ハイリゲンクロイツ修道院 |
配偶者 | マリア・フォン・ベーメン |
家名 | バーベンベルク家 |
父親 | オーストリア辺境伯レオポルト3世 |
母親 | アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン |
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レオポルト4世(Leopold IV., 1108年頃 - 1141年10月18日)は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1136年 - 1141年)及びバイエルン公(在位:1139年 - 1141年)。オーストリア辺境伯としてはレオポルト4世。オーストリア辺境伯レオポルト3世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘アグネスの次男。最初のオーストリア公ハインリヒ2世の弟。シュヴァーベン大公フリードリヒ2世とローマ王コンラート3世の異父弟にあたる。
生涯
バイエルンはザクセン公でもあったハインリヒ傲岸公が領有していたが、コンラート3世に警戒されて領土を没収、バイエルンはレオポルト4世に、ザクセンはバレンシュテット伯アルブレヒト熊公に与えられた。しかし、1141年に急死、オーストリアとバイエルンは兄のハインリヒ2世が受け継いだ。
1138年にボヘミア公ソビェスラフ1世の娘マリアと結婚したが、子は無かった。
遺体はハイリゲンクロイツ修道院の集会室に埋葬されている[1]。
脚注
[脚注の使い方]
- ^ “ハイリゲンクロイツ修道院はウィーンの森の神秘なる中心”. ハイリゲンクロイツ修道院. 2014年1月7日閲覧。
- レーゲンスブルク包囲戦のレオポルト
- レオポルト4世
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