マルセロ・アスカラガ・パルメロ

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はアスカラガ第二姓(母方の姓)はパルメロです。
マルセロ・アスカラガ
Marcelo Azcárraga
ムンド・グラフィコ(スペイン語版)』誌のアスカラガ、カウラク(スペイン語版)撮影
生年月日 1832年9月4日
出生地 スペインの旗 スペイン王国フィリピン総督領マニラ
没年月日 (1915-05-30) 1915年5月30日(82歳没)
死没地 スペインの旗 スペイン王国マドリード
出身校 聖トマス大学
フィリピン商業海洋学校
前職 軍人
所属政党 自由保守党
称号 陸軍元帥
メリト・ミリタール勲章(スペイン語版)大十字(1874年)
カルロス3世勲章(スペイン語版)大十字(1875年)
カルロス3世勲章騎士(1889年)
金羊毛騎士(1904年)
配偶者 マルガリータ・フェセル・ディアゴ(Margarita Fesser Diago)
子女 マルガリータ
カルロス
マリア
ホセ・マリア
カルメン・イ・デサンパラドス

在任期間 1897年8月10日 - 1897年10月4日
1900年10月23日 - 1901年3月6日
1904年12月16日 - 1905年1月27日
国王 アルフォンソ13世

スペインの旗 海軍大臣(スペイン語版)
在任期間 1900年10月23日 - 1900年10月31日
1904年12月16日 - 1905年1月6日

スペインの旗 戦争大臣(スペイン語版)
在任期間 1890年7月5日 - 1892年12月11日
1895年3月23日 - 1897年10月4日
1899年10月2日 - 1900年10月18日
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マルセロ・デ・アスカラガ・パルメロスペイン語: Marcelo de Azcárraga Palmero, マニラ1832年9月4日 - マドリード1915年5月30日)はスペインの軍人・政治家。アルフォンソ13世の治世(スペイン語版)下で首相を務めた。

生い立ち

フィリピン・マニラビスカヤ県出身の父ホセ・アスカラガと母マリア・パルメロの間に生まれる[1]

マニラの聖トマス大学で法学を学び、その後進学した海洋学校では数学で首席となった。士官学校入学のため父によってスペイン本土に送られ、3年後には大尉に任官されている。

23歳で聖フェルナンド勲章(スペイン語版)を授与されている。その後メキシコキューバサント・ドミンゴといった海外を訪れている。フアン・プリム将軍率いるメキシコ遠征軍やサント・ドミンゴ遠征に参加後、1866年にスペインへと帰国した。その後キューバへと戻り、フェセル銀行・保険会社(Banco y Casa de Seguros Fesser)の創業・経営者フェセル一族の女性と結婚した。

政歴

ホアキン・シャウダロ(スペイン語版)『マルセロ様の御出産』(1904年、『ヘデオン(スペイン語版)』誌)

1856年のバルドメロ・エスパルテロ退陣運動に参加後、キューバ赴任、駐メキシコ大使を歴任した。1866年にプリム将軍の革命運動鎮圧後、政府への忠誠が認められて大佐へと昇進した。1868年にはイサベル2世廃位運動に参加し、准将へと昇進した。また戦争次官へと任命され、共和政成立まで務めた。スペイン王政復古を熱烈に支持し、アルフォンソ12世のスペイン国王即位を支援した。自由保守党(スペイン語版)の一員として王政復古期には活発な政治活動を行い、アントニオ・カノバス・デル・カスティーリョ(スペイン語版)およびフランシスコ・シルベラ(スペイン語版)内閣で戦争大臣を務めた。

首相

1868年、スペイン女王イサベル2世の退位後、彼はスペインへと帰国し、ボルボン家の復権運動を支援し、アルフォンソ12世の即位に伴い中将へと昇進した。スペイン上院の終身議員に選出され、アントニオ・カノバス・デル・カスティーリョ(スペイン語版)内閣で戦争大臣を、さらに1897年8月8日の首相暗殺事件に伴い同年10月4日まで首相代行を務めた。彼はその後2回首相を務めているが、いずれも1年以内に辞任しており、あくまで暫定的なものであった。

「:es:Anexo:Segundo Gobierno de Marcelo Azcárraga (1900-1901)」も参照
「:es:Anexo:Tercer Gobierno de Marcelo Azcárraga (1904-1905)」も参照

晩年

マルセロ・アスカラガ・パルメロの名誉市民証

1904年9月、72歳で陸軍退官後、君主制擁護と平和維持の功が認められ金羊毛勲章を授与された[2]。既に聖フェルナンド勲章(スペイン語版)を授与されており、生涯年金の対象となっていた。1896年11月8日にはバレンシア市名誉市民号を送られている。1915年5月30日にマドリードで死去し[3]、翌日聖イシドロ墓地(スペイン語版)へと埋葬されている[4]

脚注

  1. ^ Anónimo 1911, p. 342.
  2. ^ Varios autores 1922, p. 355.
  3. ^ Muerte del general Azcárraga, XXVI, El Heraldo de Madrid, (1915-5-30), pp. 1, ISSN 2171-0090, http://hemerotecadigital.bne.es/issue.vm?id=0000671781&page=1 
  4. ^ Fallecimiento del general Azcárraga: El desfile, XXIX, La Correspondencia Militar, (1915-5-31), pp. 3, ISSN 1132-6441, http://hemerotecadigital.bne.es/issue.vm?id=0002076768&page=3 

参考文献

  • Anónimo (1911-11-30), Notas biográficas del general Azcárraga, La Ilustración Militar, pp. 341-343, ISSN 2171-2867, http://hemerotecadigital.bne.es/issue.vm?id=0003869250&page=1 
  • Varios autores (1922) (英語), Azcárraga y Palmero, Marcelo, Encyclopaedia Britannica, XXX (12 ed.), Londres y Nueva York, https://archive.org/stream/encyclopaediabri30chisrich#page/354/mode/2up 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、マルセロ・アスカラガ・パルメロに関連するカテゴリがあります。
  • Senado de España: Expediente personal del Senador
公職
先代
アントニオ・カノバス・デル・カスティーリョ(スペイン語版)
スペインの首相

1897年
次代
プラシェデス・マテオ・サガスタ(スペイン語版)
先代
フランシスコ・シルベラ・レ・ビエリェウセ(スペイン語版)
スペインの首相

1900年 - 1901年
次代
プラシェデス・マテオ・サガスタ(スペイン語版)
先代
フロレンシオ・モントホ(スペイン語版)
海軍大臣(スペイン語版)

1892年
次代
ホセ・マリア・ベランヘル(スペイン語版)
先代
フランシスコ・シルベラ・レ・ビエリェウセ(スペイン語版)
海軍大臣(スペイン語版)

1900年
次代
ホセ・ラモス・イスキエルド(スペイン語版)
先代
アントニオ・マウラ(スペイン語版)
スペインの首相

1904年 - 1905年
次代
エウヘニオ・モンテーロ・リオス(スペイン語版)
イサベル2世治世下
(1833–1868)
  • マルティネス・デ・ラ・ローザ 1834-1835
  • ケイポ 1835
  • アラバ 1835
  • アルバレス・メンディサバル 1835-1836
  • イストゥリズ 1836
  • カラトラバ 1836-1837
  • エスパルテロ 1837
  • バルダヒ 1837
  • エレディア 1837-1838
  • ベラスコ 1838
  • ペレス・デ・カストロ 1838-1840
  • アントニオ・ゴンサレス 1840
  • フェハス 1840
  • コルタサル 1840
  • サンチョ 1840
  • エスパルテロ 1840-1841
  • フェレール 1841
  • アントニオ・ゴンサレス 1841-1842
  • ロディル 1842-1843
  • J. M. ロペス 1843
  • ゴメス・ベセラ 1843
  • オロザガ 1843
  • ゴンサレス・ブラボー 1843-1844
  • ナルバエス 1844-1846
  • フェルナンデス・デ・ピネド 1846
  • ナルバエス 1846
  • イストゥリズ 1846-1847
  • マッキーン 1847
  • パチェコ 1847
  • ガルシア・ゴエナ 1847
  • ナルバエス 1847-1849
  • マリア・デ・ソット 1849
  • ナルバエス 1849-1851
  • ブラボー・ムリーリョ 1851-1852
  • ロンカリ 1852-1853
  • レルサンディ 1853
  • サルトリウス 1853-1854
  • コルドバ 1854
  • リバス 1854
  • エスパルテロ 1854-1856
  • オドンネル 1856
  • ナルバエス 1856-1857
  • アルメロ 1857-1858
  • イストゥリズ 1858
  • オドンネル 1858-1863
  • フェルナンデス・デ・ピネド 1863-1864
  • アラゾラ 1864
  • モン 1864
  • ナルバエス 1864-1865
  • オドンネル 1865-1866
  • ナルバエス 1866-1868
  • ゴンサレス・ブラボー 1868
  • コンチャ 1868
民主主義の六年間
(1868–1874)
  • マドス 1868
  • セラーノ 1868-1869
  • プリム 1869-1870
  • トペーテ 1870-1871
  • セラーノ 1871
  • ルイス・ソリーリャ 1871
  • マルカンポ 1871
  • サガスタ 1871-1872
  • セラーノ 1872
  • ルイズ・ソリーリャ 1872-1873
  • フィゲラス 1873
  • 1873
  • サルメロン 1873
  • カステラル 1873-1874
  • セラーノ 1874
  • サバラ 1874
  • サガスタ 1874
王政復古
(1874–1931)
  • カノバス 1874-1875
  • ホベリャール 1875
  • カノバス 1875-1879
  • マルティネス・カンポス 1879
  • カノバス 1879-1881
  • サガスタ 1881-1883
  • ポサーダ 1883-1884
  • カノバス 1884-1885
  • サガスタ 1885-1890
  • カノバス 1890-1892
  • サガスタ 1892-1895
  • カノバス 1895-1897
  • アスカラガ 1897
  • サガスタ 1897-1899
  • シルベラ 1899-1900
  • アスカラガ 1900-1901
  • サガスタ 1901-1902
  • シルベラ 1902-1903
  • フェルナンデス・ビジャベルデ 1903
  • マウラ 1903-1904
  • アスカラガ 1904-1905
  • フェルナンデス・ビジャベルデ 1905
  • モンテーロ 1905
  • モレット 1905-1906
  • ロペス・ドミンゲス 1906
  • モレット 1906
  • アギラ 1906-1907
  • マウラ 1907-1909
  • モレット 1909-1910
  • カナレハス(英語版) 1910-1912
  • ガルシア・プリエト 1912
  • ロマノーネス 1912-1913
  • ダト 1913-1915
  • ロマノーネス 1915-1917
  • ガルシア・プリエト 1917
  • ダト 1917
  • ガルシア・プリエト 1917-1918
  • マウラ 1918
  • ガルシア・プリエト 1918
  • ロマノーネス 1918-1919
  • マウラ 1919
  • サンチェス・デ・トカ 1919
  • アジェンデサラサル 1919-1920
  • ダト 1920-1921
  • ブガラル 1921
  • アジェンデサラサル 1921
  • マウラ 1921-1922
  • サンチェス・ゲラ 1922
  • ガルシア・プリエト 1922-1923
  • プリモ・デ・リベラ 1923-1930
  • ベレンゲル 1930-1931
  • アスナル 1931
第二共和政
(1931–1939)
  • アルカラ=サモーラ 1931
  • アサーニャ 1931-1933
  • レルー 1933
  • マルティネス・バリオ 1933
  • レルー 1933-1934
  • サンペール 1934
  • レルー 1934-1935
  • チャパプリエータ 1935
  • ポルテーラ 1935-1936
  • アサーニャ 1936
  • バルシア 1936
  • カサーレス 1936
  • マルティネス・バリオ 1936
  • ヒラル 1936
  • ラルゴ 1936-1937
  • ネグリン 1937-1939
フランコ体制下
(1936–1975)
民主化後
(1975-)
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