マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダ

マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダ
Manuel García de la Prada
ゴヤによる『マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダの肖像』。デモイン・アート・センター(英語版)所蔵[1]
生誕 María Teresa de Vallabriga y Rozas
1768年
スペインの旗 スペイン マドリード
死没 1839年
スペインの旗 スペイン ?
国籍 スペインの旗 スペイン
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マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダ西: Manuel García de la Prada, 1768年-1839年)は、スペイン商人実業家政治家である。マドリード市長(コレヒドール)。

生涯

マヌエル・ガルシアは1768年にフアン・シクスト・ガルシア・デ・ラ・プラダ(Juan Sixto García de la Prada)とローサ・ゴマラ(Rosa Gomarra)の息子としてマドリードに生まれた。彼の父は裕福な地主、商人で、サン・カルロス国立銀行(スペイン語版)創設者の1人であり[2][3]、1775年に商人であるにもかかわらず貴族として迎えられた。マヌエル・ガルシアは極めて若い頃から同銀行の理事会メンバーに加わり、1795年に父と同じくカルロス3世勲章(英語版)を授与された。1800年以降、彼は海軍と王室に役職を持ち、フランス軍に占領された1808年には国立銀行を代表してバイヨンヌ会議(スペイン語版)に出席し[3]バイヨンヌ憲法(英語版)に署名した[2]。新国王ホセ1世の官僚組織に加わり、半島戦争中の1811年9月から1812年8月にかけてマドリード市長の地位に就いた[2][3]。在職中の1812年5月には王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員となっている[4]。しかし同年7月22日、サラマンカの戦いでフランス軍が初代ウェリントン伯爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス=ポルトガル連合軍に敗北すると市議会は解散、バレンシアからフランス南西部の都市ポーに亡命し、そこからパリに移った。莫大な財産による社会支援と保証は早期の帰国を可能とし、戦争後の1816年にレジオンドヌール勲章のシュヴァリエに叙され、1818年にスペインに帰国した[3]。翌年には女優のマリア・ガルシア(María García)と2度目の結婚をしたが、1826年に死別[2]。1839年11月23日に死去[4]

コレクション

マヌエル・ガルシアはいくつかの優れた絵画を所有していたが[5]、特に有名なのはフランシスコ・デ・ゴヤの5点の作品『狂人の家』(La casa de locos)、『苦行者の行列』(Procesión de flagelantes)、『異端審問の法廷』 (Tribunal de la Inquisición)、『村の闘牛』(Corrida de toros en un pueblo)、『鰯の埋葬』(El entierro de la sardina)である。肖像画ではマリアーノ・サルバドール・マエラが描いた彼の父の肖像画『フアン・シクスト・ガルシア・デ・ラ・プラダの肖像』(Retrato de Juan Sixto García de la Prada)、またゴヤによるマヌエル・ガルシアを描いた1805年頃の肖像画と、ホセ・デ・マドラーソによる1827年の肖像画が知られている。これらの作品は王立サン・フェルナンド美術アカデミーに遺贈された[5][2][4][6][7]。これらのうちゴヤによる肖像画のみ、紆余曲折を経てアメリカ合衆国アイオワ州デモイン・アート・センター(英語版)に所蔵されている[1]

ギャラリー

マヌエル・ガルシアが所有していた絵画作品
ホセ・デ・マドラーソの『マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダの肖像』。1827年[7]
  • マリアーノ・サルバドール・マエラ『フアン・シクスト・ガルシア・デ・ラ・プラダの肖像』1795年[6]
    マリアーノ・サルバドール・マエラ『フアン・シクスト・ガルシア・デ・ラ・プラダの肖像』1795年[6]
  • フランシスコ・デ・ゴヤ『異端審問の法廷』1812年-1819年[8]
    フランシスコ・デ・ゴヤ『異端審問の法廷』1812年-1819年[8]
  • フランシスコ・デ・ゴヤ『苦行者の行列』1812年-1819年[9]
    フランシスコ・デ・ゴヤ『苦行者の行列』1812年-1819年[9]
  • フランシスコ・デ・ゴヤ『狂人の家』1812年-1819年[10]
    フランシスコ・デ・ゴヤ『狂人の家』1812年-1819年[10]
  • フランシスコ・デ・ゴヤ『村の闘牛』1812年-1819年[11]
    フランシスコ・デ・ゴヤ『村の闘牛』1812年-1819年[11]
  • フランシスコ・デ・ゴヤ『鰯の埋葬』1812年-1819年[12]
    フランシスコ・デ・ゴヤ『鰯の埋葬』1812年-1819年[12]

脚注

  1. ^ a b “Don Mañuel Garcia de la Prada, ca. 1805-1808”. デモイン・アート・センター(英語版)公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e “Los legados de Manuel García de la Prada y Fernando Guitarte: la colección de Goya de la Real Academia de San Fernando”. プラド美術館公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  3. ^ a b c d “Manuel García de la Prada”. Real Academia de la Historia. 2024年9月5日閲覧。
  4. ^ a b c “Manuel García de la Prada Mi conducta política”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  5. ^ a b “Manuel García de la Prada Mi conducta política”. Fundación Goya en Aragón. 2024年9月5日閲覧。
  6. ^ a b “Maella, Mariano Salvador Valencia, Juan Sixto García de la Prada”. Fundación Goya en Aragón. 2024年9月5日閲覧。
  7. ^ a b “Madrazo y Agudo, José de, Manuel García de la Prada”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  8. ^ “La casa de locos”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  9. ^ “Los disciplinantes”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  10. ^ “La casa de locos”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  11. ^ “La corrida de toros”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。
  12. ^ “El entierro de la sardina”. 王立サン・フェルナンド美術アカデミー公式サイト. 2024年9月5日閲覧。

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダに関連するカテゴリがあります。
  • 王立スペイン歴史アカデミー公式サイト, マヌエル・ガルシア・デ・ラ・プラダ