ボスニア・ヘルツェゴビナ文学

ボスニア・ヘルツェゴビナ文学は、ボスニア・ヘルツェゴビナの作家やボスニア・ヘルツェゴビナにルーツを持つ作家による文芸作品および文学研究を指す。ボスニア・ヘルツェゴビナの文化は、南スラヴ人の文化、キリスト教文化、イスラーム文化、ユダヤ文化が重なり合って形成されている。多様性は言語にも表れており、時代によってボスニア語セルビア・クロアチア語トルコ語アラビア語ペルシア語の作品があり、書き言葉においてはキリル文字アラビア文字ラテン文字で執筆が行われてきた。本項目では、歴史的に密接な関係があるセルビア、クロアチア、モンテネグロの作家や作品についても言及する。

さまざまな民族や宗教が存在することに加えて政治の変遷も影響を及ぼし、時代によって作家の姿勢や作品への賛否も変化している。20世紀以降は多民族国家ユーゴスラヴィアとしての価値観と、ユーゴスラヴィア崩壊の体験や社会の変化、その後の人生が重要なテーマとなっている。

歴史

修道士ディヴコヴィチによる『スラヴ民族のためのキリスト教教理』

ボスニア・ヘルツェゴビナ文学の歴史にはいくつかの流れがあり、中世から近代にかけてはフランチェスコ会(英語版)イスラームギリシャ正教の影響下で創作が進められた[1]。フランチェスコ会は13世紀からボスニアで活動を始め、ボスニア出身の修道士マティヤ・ディヴコヴィチ(ボスニア語版)は民衆に語りかけるために地元のシュト方言を使い、聖職者向けの本として『スラヴ民族のためのキリスト教教理』(1611年)をヴェネツィア共和国で印刷した。5年後には民衆向けの教理集も発行され、ボスニア・ヘルツェゴビナだけでなくダルマツィアでも読まれた。これらの書物によってディヴコヴィチはボスニア文学の祖とも呼ばれている[2]

オスマン帝国の統治によってボスニアはイスラーム文化の影響を受け、トルコ語、ペルシア語、アラビア語でも創作が行われた。17世紀にはアラビア文字で表記するボスニア語も使われるようになった(Ottoman Bosnia and Herzegovinaも参照)[3]。ギリシャ正教においては、ボスニア南部出身のニチフォル・ドゥチッチがセルビアとフランスで教育を受け、修道院について著述した。また、モンテネグロの主教でもあったペタル二世ペトロビッチ=ニェゴシュ(ボスニア語版)の作品を見出した[4]

オーストリア・ハンガリー帝国の統治下で、ボスニアではアイデンティティの探求や独立がテーマとなった[5]。オスマン帝国後の南スラヴは、キリスト教が優勢な地域ではイスラーム文化が目立たなくなっていったが、イスラームが多いボスニア・ヘルツェゴビナは独自の文化が保持された[6]。別個の背景をもつ伝統が合流して文化サークルが形成され、雑誌の創刊が相次いだ[5]

第一次世界大戦後のボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラヴィア王国の領土となり、南スラヴの文化的統一を目的とした文芸が盛んになった。第二次世界大戦後のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国ではパルチザンをテーマとする作品が増えた[7]。近代文学の作家らはボスニアの紙幣に肖像が用いられており、文学がボスニアのアイデンティティに与えた影響を表している[注釈 1][5]

ユーゴスラビアの崩壊によって、ボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人ムスリム人)、クロアチア人セルビア人の3つの民族主義者が対立してボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起きた[9][10]。首都サラエヴォはセルビア人勢力による包囲攻撃を1992年から1996年まで受け、サラエヴォ包囲と呼ばれた[11]。包囲の最中もサラエヴォでは文化的な営みや創作が行われ、メインストリートの劇場では演劇も上演された[12]

紛争はデイトン合意によって終結したが、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦スルプスカ共和国に分権化し、多数の作家が国外に去った。作品のテーマには紛争の傷跡などが増え、移住先の土地の言語でも執筆が続けられている[13][14]

言語、地理

アンドリッチの小説『ドリナの橋』の題材となったソコルル・メフメト・パシャ橋

ボスニア・ヘルツェゴビナの公用語は、ボスニア語セルビア語クロアチア語となっている。ボスニア語はボシュニャク人(ムスリム人)が母語としてきた言語で、旧ユーゴスラヴィアセルビア・クロアチア語がもとになっている[注釈 2][16]。1994年にボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の憲法草案でボシュニャク人とボスニア語が明記され、民族名と言語名の使用が始まった[注釈 3][16]。歴史的には、ボスニア語やセルビア・クロアチア語の他にトルコ語、ペルシア語、アラビア語でも創作が行われてきた[3]

書き言葉は、スラヴ人が国家を建設してから15世紀までは主にキリル文字が使われ、オスマン帝国時代になるとアラビア文字で表記するアレビツァ(アリャミヤド)も使われた。オスマン帝国末期からはセルビアからキリル文字の書籍が入り、ハプスブルク帝国時代にラテン文字とキリル文字が使われて正書法や言語政策が整備された[18]。ボスニア語の正書法は、セルビア・クロアチア語とほぼ同一となる[16]

ボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラヴィア連邦の縮図とも言われた多民族社会であり、連邦構成国の中で特定の民族だけの故郷ではない唯一の地域だった。加えて、特定の民族に属さない人々を制度的・日常的に保障していた[注釈 4][19]。しかし紛争後はデイトン合意にもとづく憲法でボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3民族が主要民族と定義され、多様性が切り捨てられた。さらに民族ごとに基盤となる地域が定められ、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦はボシュニャク人とクロアチア人、スルプスカ共和国はセルビア人の基盤となった。こうした分権化のために和解や共存に必要な歴史認識が共有されなくなっている。ロマユダヤ人などのマイノリティに被選挙権を認めない差別もあり、EU加盟の障害になっている[14]

作品形式とテーマ

詩歌

南スラヴの英雄叙事詩は、コソヴォの戦い(1389年)以降のオスマン帝国の征服と統治の歴史に沿って各地で作られた。ボスニアにおけるムスリムの英雄叙事詩もこの流れに含まれる[注釈 5][21]ボシュニャク人の叙事詩(英語版)の最古の記録は、16世紀のスロヴェニア人のベネディクト・クリペシッチ(ボスニア語版)の『旅行記』にあり、マルコシッチという人物の活躍を謳う詩について書かれている[注釈 6][23]。16世紀のムスリムの陣地では武勲詩の伝統があり、そこではキリスト教徒の吟遊詩人も受け入れられ、詩人たちはムスリムの聴衆のための叙事詩も歌った[注釈 7][24]。キリスト教徒の伝承に登場するマルコ・クラリェヴィチに相似する人物として、ムスリムの伝承に登場するアリヤ・ジェルゼレズ(ボスニア語版)がいる[25]。オスマン帝国時代のサラエヴォ出身の詩人では、ハサン・カイミヤ(Hasan Kaimija)がボスニア語とトルコ語を使い、デルヴィシュ・パシャ・バィエジダギッチ(ボスニア語版)はトルコ語とペルシア語を使った。フェヴズィヤ・モスタラツ(ボスニア語版)は、ペルシア語の散文詩『サヨナキドリの庭』を書いた[3]

記録にあるボスニア最古の女性作家Umihana Čuvidina

1780年代にはTurçija(トルコ歌謡)と呼ばれる歌が流行し、貴族の青年の宴会で歌われた。Turçijaはボスニアの上流社会ではセヴダリンカ(ボスニア語版)と呼ばれる恋歌・艶歌として発展した[注釈 8][26]。セヴダリンカという語は、トルコ語で愛を意味するセヴダ(sevda)が土着の言葉となって定着したもので「愛の歌」を意味する[注釈 9][6]。記録に残るボスニア最古の女性詩人Umihana Čuvidinaは、セヴダリンカの作品を残した。セヴダリンカは19世紀から20世紀前半のロマン主義のもとで多く創作され、セヴダリンカを盛り立てた詩人としてセルビア系詩人アレクサ・シャンティチ(ボスニア語版)がいる[27]。シャンティチは愛、社会、愛国心などをテーマとして、近所のムスリムの少女を詠った『エミナ』が特に人気を呼んだ[5]。セヴダリンカはポピュラー音楽となり、1970年代を頂点としてユーゴスラヴィアで人気を集め、特にムスリムの多いボスニア・ヘルツェゴビナが中心となった[28]

ヨヴァン・ドゥチッチ(ボスニア語版)モスタルで教師をしながら詩作を続け、1915年にはイギリスの雑誌『ニュー・エイジ』に英訳も掲載された。セルビアの外交官となったのちにナチス・ドイツのユーゴスラヴィア王国侵攻時にアメリカへ亡命し、客死している[29]マック・ディズダル(ボスニア語版)は中世ボスニアのムスリムへの関心を結実させた詩集『石の眠り人』(1968年)を発表した。本作品ではステチュツィと呼ばれる中世の墓碑が中心となり、墓碑の下で眠るボスニア教会の信者や異端狩りと詩人が対話をする[30]

小説

イヴォ・アンドリッチ
アレクサンダル・ヘモン
サーシャ・スタニシチ

イヴォ・アンドリッチはユーゴスラヴィア王国の外務省で働きながら文筆活動を行い、ナチス・ドイツ占領下のベオグラードで長編を完成させ、1945年に『ドリナの橋』『ボスニア物語』『サラエヴォの女』を相次いで発表した[31]。2つの世界大戦を通じて創作を続けたアンドリッチは1961年にノーベル文学賞を受賞し、多民族国家ユーゴスラヴィアの文学を象徴する作家となった[18]

他方で、ユーゴスラヴィア解体と5つの共和国独立にともなってアンドリッチの評価も変化した[注釈 10][33]。英雄叙事詩の人物を題材とした『アリヤ・ジェルゼレズの旅』(1920年)は、ムスリムの描写が批判されている。ボスニアで予定されていたアンドリッチの生誕100年祭は中止となり、教科書からアンドリッチの作品が削除された[注釈 11][33]。アンドリッチの評価については論争が続いている[34]

メシャ・セリモヴィッチ(ボスニア語版)は『修道師と死(ボスニア語版)』(1966年)でオスマン帝国時代のスーフィーの導師を主人公として、ボスニアの錯綜した状況と細やかな心理描写を一人称で語った。家族を助けて世俗に戻るか、神の秩序に従って家族を見捨てるかの選択に迫られる主人公の物語は反響を呼んだ[35]。セリモヴィッチの作品が発表された時代は、多民族国家としてのユーゴスラヴィアがムスリムの存在を認める途上にあり、イスラーム文化と西欧文化の交差が描かれている[36]

ジェヴァド・カラハサン(ボスニア語版)はサラエヴォとグラーツで執筆や演劇の活動を行い、作品はドイツ語を中心にヨーロッパで翻訳されている。カラハサンの『1993年の手紙』(1996年)は、アンドリッチの『1920年の手紙』(1920年)をもとにしており、アンドリッチが「憎悪」をキーワードにボスニアを表現したのに対して対話や信頼によるボスニアを描いている。ユーゴスラヴィア紛争時代を舞台として、アンドリッチの小説の登場人物を使いながら、アンドリッチとは異なる多様な価値観を体現させた[37][38]。旧ユーゴスラヴィア時代出身のカラハサンにとってボスニアは多様性と共生であり、紛争によって破壊された価値観を描いている[39]

紛争のために国外で暮らす人々によっても創作が続けられている。ミリェンコ・イェルゴヴィッチ(ボスニア語版)ザグレブに暮らし、『サラエヴォ・マールボロ』(1994年)で紛争で変化する日常を淡々とした筆致で記した[40]アレクサンダル・ヘモンはシカゴ滞在時に紛争が起きてサラエヴォに帰れなくなり、さまざま仕事で暮らしながら英語で執筆をした。『ノーホエア・マン』(2002年)や『ラザルス計画』(2008年)では、アメリカ移民として母語ではない英語を使う困難や、紛争による母語の分裂が語られ、ボスニアが失われた故郷として登場する[41][13]サーシャ・スタニシチ(ボスニア語版)は14歳でドイツに移住してドイツ語で執筆しており、ボスニアを再訪する自伝的作品『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(2006年)を発表した[42]

年代記、ノンフィクション

最初のボスニアの歴史書は、修道士フィリプ・ラストリッチの『ボスニア地方の古代の概説』(1765年)だった[2]。サラエヴォの年代記作者ムラ・ムスタファ・バシェスキヤ(ボスニア語版)は18世紀から19世紀のサラエヴォについて記述し、貴重な記録となっている。バシェスキヤは当時のサラエヴォで話されていたトルコ語で執筆しており、流行した詩歌や楽器についても言及がある[26]

幼少期をサラエヴォ包囲の中で生活したヤスミンコ・ハリロビッチは、同じく包囲中に子供だった人々にEメールで体験を募集し、『ぼくたちは戦場で育った 』として書籍化した。ハリロビッチは子ども戦争博物館の館長を務め、サラエヴォをテーマとしたブログが書籍化されている[43]。その他にもサラエヴォ包囲で少女時代をすごしたズラータ・フィリポヴィッチ(ボスニア語版)の日記をまとめた『ズラータの日記(ボスニア語版)』など、多数のノンフィクションが出版されている[44]

出版、図書館

紛争で破壊されたサラエヴォ国立図書館。チェロを演奏するのはヴェドラン・スマイロヴィッチ(ボスニア語版)
ボスニア最古の由来を持つガジ・フスレブベグ図書館。国立図書館とともに2014年に新たに開館した

ボスニア語の印刷物が誕生したのは印刷・出版が盛んだったヴェネツィア共和国であり、ミラノ公国ラグーザ共和国の人々の貢献もあった[注釈 12]。初のボスニア語の印刷物は祈祷書『聖母マリアの祈り』(1511年)だった。当時のボスニア語はキリル文字で書かれており、ボスニア・キリル文字(ボスニア語版)と呼ばれた。ボスニア・キリル文字のアルファベット表を初めて印刷してラテン語に音訳したのはパリのギヨーム・ポステルで、3冊目のボスニア語の祈祷書はミラノの印刷者ジョルジオ・ルスコーニが手がけている。これらは全てヴェネツィアで印刷され、祈祷書の監修はラグーザのフラニョ・ミカロヴィッチ・ラトコヴィッチが行った。ヴェネツィアにおけるボスニア語のキリル文字出版はマティヤ・ディヴコヴィチの著作で全盛期を迎え、1716年まで続いた[注釈 13][49]

ボスニア初の文芸誌は、ザグレブで1850年に出版された『ボスニアの友』だった。ザグレブのイヴァン・フラニョ・ユキッチがリュデヴィト・ガイの援助を受けて刊行した雑誌で、4巻本の百科事典的な内容となった[50]。1885年に創刊された文芸誌『ボスニアの妖精(ボスニア語版)』は、民族主義とは異なる南スラヴの統一を目標とした。この雑誌の呼びかけに応じて南スラヴ各地の作家が参加し、イヴォ・アンドリッチも最初の作品を発表した[4]。他にも1895年には『希望』という文芸誌が創刊された[18]。モスタルでは『あけぼの』や『真珠』などの文芸誌が創刊された。『あけぼの』は1896年にアレクサ・シャンティチ、スヴェトザル・チョロヴィチ(ボスニア語版)、ヨヴァン・ドゥチッチらによって創刊され、ボスニア近代文学の中心となった[5]。『真珠』はムスリム系のムサ・チャズィム・チャティチが創刊した雑誌だった[5]。第一次世界大戦後に建国されたユーゴスラヴィア王国では文芸誌『プレグレド』が創刊されて文学的風土に影響を与えた[18]

ボスニア最古の図書館として、オスマン帝国時代の1537年に設立されたガジ・フスレブベグ図書館(ボスニア語版)がある[注釈 14][52]サラエヴォ国立図書館(ボスニア語版)は、1992年8月にセルビア人武装勢力の攻撃を受けて200万点の資料が焼失した[53]。学術機関であるサラエヴォ・オリエンタル機関(ボスニア語版)も攻撃を受け、中東の写本のコレクションが失われた。この焼失については、イェルゴヴィッチが『サラエヴォ・マールボロ』で怒りを込めて書いている[54]。国立図書館の焼失を受けて、ガジ・フスレブベグ図書館では資料を8箇所に分けて保管して守った[52]。その後、国立図書館やガジ・フスレブベグ図書館は修復されて再び開館した[53]。近代化されたガジ・フスレブベグ図書館はバルカン地域で最大級の図書館の1つで、収蔵資料は約10万点あり、そのうち10,050点以上が写本資料で内容はイスラーム科学イスラーム哲学アラビア数学、歴史、薬学、文学、天文学などがある[51]

主な著作家

詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナの著作家(英語版)」を参照
  • マティヤ・ディヴコヴィチ(ボスニア語版)(1563年-1631年)
  • デルヴィシュ・パシャ・バィエジダギッチ(ボスニア語版)
  • ムラ・ムスタファ・バシェスキヤ(ボスニア語版)(1731年-1809年)
  • シーマ・ミルティノビッチ(ボスニア語版)(1791年-1847年)
  • フェヴズィヤ・モスタラツ(ボスニア語版)(1794年-1870年) - 『サヨナキドリの庭』
  • Umihana Čuvidina(1794年-1870年)
  • ペタル二世ペトロビッチ=ニェゴシュ(ボスニア語版)(1813年-1851年) - 『山の花環』
  • アレクサ・シャンティチ(ボスニア語版)(1868年-1924年)
  • ヨヴァン・ドゥチッチ(ボスニア語版)(1872年-1943年)
  • スヴェトザル・チョロヴィチ(ボスニア語版)(1875年-1919年)
  • イヴォ・アンドリッチ(1892年-1975年) - 『ドリナの橋』『ボスニア物語』『サラエヴォの女』(1945年)
  • メシャ・セリモヴィッチ(ボスニア語版)(1910年-1982年) - 『修道師と死』(1966年)
  • マック・ディズダル(ボスニア語版)(1917年-1971年) - 『石の眠り人』(1968年)
  • ジェヴァド・カラハサン(ボスニア語版)(1953年-2023年) - 『1993年の手紙』
  • アレクサンダル・ヘモン(1964年-) - 『ノーホエア・マン』(2002年)
  • ミリェンコ・イェルゴヴィッチ(ボスニア語版)(1966年-) - 『サラエヴォ・マールボロ』(1994年)
  • Aleksandra Čvorović(1976年-)
  • サーシャ・スタニシチ(ボスニア語版)(1978年-)- 『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』(2006年)
  • レイラ・カラムイッチ(1980年-)

脚注

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注釈

  1. ^ 紙幣に使われた作家として、イヴォ・アンドリッチ、アレクサ・シャンティチ、ヨヴァン・ドゥチッチ、メシャ・セリモヴィッチ、マック・ディズダルらがいる[8]
  2. ^ ユーゴスラヴィア解体の際、連邦で使われていたセルビア・クロアチア語はボスニア語、クロアチア語、セルビア語、モンテネグロ語に分裂した[15]
  3. ^ ボスニア語を公用語とする政策は、ハプスブルク帝国がオスマン帝国にかわって委任統治をした時代(1878年-1908年)に試みられた。ハプスブルク帝国の公用語にあたるドイツ語とマジャール語は帝国領ではない同地に強制はできず、オスマン帝国のオスマン・トルコ語も使用できないため、ボスニア語が選ばれた。しかしその名称や民族政策は広範な支持を得られず、ボスニア語はセルビア・クロアチア語と呼ばれることになった[17]
  4. ^ 紛争前の1991年の国勢調査ではムスリム人(ボシュニャク人)43.5%、ギリシャ正教徒のセルビア人31.2%、カトリック教徒のクロアチア人17.4%となり、残り8%の大半は特定の民族に属さない「ユーゴスラヴィア人」や、帰属民族を申告しない人々だった[19]
  5. ^ セルビアの英雄叙事詩ではコソヴォの戦いによる英雄の死、勲功、家族の女性たちなどが歌われて死を悼む。『プリイェズダ侯の死』『カイツァ侯の死』『ラザル王とミリツァ王妃』『コソヴォの乙女』『ユーゴヴィチ兄弟の母の死』などの作品がある[20]
  6. ^ クリペシッチはハンガリー・クロアチア王国のフェルディナント1世の使節団のラテン語通訳だった。『旅行記』は最古のバルカン半島の紀行にあたる[22]
  7. ^ 16世紀のハンガリーの詩人ティノディ(Tinódi Lantos Sebestyén)の記録による[24]
  8. ^ セヴダリンカには宴会における退廃的な面でも使われた[26]
  9. ^ セヴダは、古代ギリシアのメランコリーの概念を起源とする[6]
  10. ^ ザグレブの書店ではアンドリッチは外国文学の棚に置かれ、セルビア側の政治家ラドヴァン・カラジッチはアンドリッチの短編『1920年の手紙』を紛争の正当化に使った[32]
  11. ^ 『アリヤ・ジェルゼレズの旅』を全面的に批判した論述として、ユーゴスラヴィア大学教授の文学者ムフシン・リスヴィチの『アンドリッチの世界に見るボスニアのムスリム』がある[33]
  12. ^ ヴェネツィアは1469年に活版印刷が伝わってから出版が盛んに行われた。15世紀末までにヨーロッパの全書籍の15%を印刷し、16世紀には690の印刷所や出版社が15,000点以上を出版した[45]
  13. ^ ヴェネツィアはクロアチア語やセルビア語の出版も行った[46]。オスマン帝国に征服されたセルビアに代わってキリスト教系の書籍を印刷し、セルビア人に向けた正教徒の祈祷書を出版する中心地となった[47]。ヴェネツィアで初めて印刷されたクロアチアの書籍は、ゲオルギウス・シスゴレウスのラテン語詩集だった[48]
  14. ^ ボスニア県知事のガジ・フスレヴベグ(ボスニア語版)ワクフ制度によってメドレセを建設したことに発祥する[51]

出典

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  2. ^ a b 奥 2019a, p. 271.
  3. ^ a b c 奥 2019a, p. 272.
  4. ^ a b 奥 2019a, p. 273.
  5. ^ a b c d e f 奥 2019a, pp. 273–275.
  6. ^ a b c 上畑 2019, p. 302.
  7. ^ 奥 2019b, p. 276.
  8. ^ 奥 2019a, p. 275.
  9. ^ 佐原 2008, p. 122.
  10. ^ 柴, 山崎編著 2019, pp. 77–81.
  11. ^ FAMA編 1994, p. 5.
  12. ^ FAMA編 1994, pp. 86–88.
  13. ^ a b 奥 2019b, pp. 278–279.
  14. ^ a b 長 2022, pp. 77–79.
  15. ^ 中澤 2013, pp. 16.
  16. ^ a b c 齋藤 2001, pp. 113–114.
  17. ^ 齋藤 2001, pp. 120–122.
  18. ^ a b c d 三谷 2013a, p. 20.
  19. ^ a b 長 2022, p. 77.
  20. ^ 栗原 2001, p. 28.
  21. ^ 栗原 2001, pp. 27–28.
  22. ^ 栗原 2001, p. 30.
  23. ^ 栗原 2001, pp. 30–31.
  24. ^ a b 栗原 2001, pp. 32–33.
  25. ^ 栗原 2006, p. 39.
  26. ^ a b c 栗原 2001, pp. 33–34.
  27. ^ 上畑, 2019 & pp-303-304.
  28. ^ 上畑 2019, pp. 302–304.
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参考文献

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    • 山崎信一『言語――三つの言語? 一つの言語?』。 
  • 『東欧・中央ユーラシアの近代とネイションⅠ』スラブ研究センター〈スラブ研究センター研究報告シリーズ No.80〉、2001年。 
    • 栗原成郎『第3章 ボスニア・ムスリム民衆叙事詩の成立とムスリム民族意識の形成』。 
  • メシャ・セリモヴィッチ 著、三谷惠子 訳『修道師と死』松籟社、2013年。 (原書 Meša Selimović (1966), Derviš i smrt 
  • 中東現代文学研究会(編)「中東現代文学選 2012」、プロジェクト・ワタン、2013年3月、2024年6月11日閲覧 
    • 三谷恵子『ジェヴァド・カラハサン「1993年の手紙」解説』。 
    • 三谷恵子『ミリェンコ・イェルゴヴィッチ「盗み」解説』。 
  • 中澤拓哉「〈モンテネグロ語〉の境界 : ユーゴスラヴィア解体以降の言語イデオロギーにおける「言語」の再編(2007- 2011)」『境界研究』第4巻、北海道大学スラブ研究センター、2013年11月、15-30頁、2024年9月3日閲覧 
  • ヤスミンコ・ハリロビッチ 編、角田光代 訳『ぼくたちは戦場で育った サラエヴォ1992-1995』集英社インターナショナル、2015年。 (原書 Jasminko Halilovic, ed., War Childhood: Sarajevo 1992-1995. 
  • FAMA(英語版) 編、P3 art and environment(英語版) 訳『サラエボ旅行案内 史上初の戦場都市ガイド』三修社、1994年。 (原書 Sarajevo Survival Guide, (1993) 
  • ズラータ・フィリポヴィッチ 著、相原真理子 訳『ズラータの日記 サラエボからのメッセージ』二見書房、1994年。 (原書 Zlata Filipović (1993), Zlata's Diary 
  • アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ(イタリア語版) 著、清水由貴子 訳『そのとき、本が生まれた』柏書房、2013年。 (原書 Alessandro Marzo Magno (2012), L'alba dei libri. Quando Venezia ha fatto leggere il mondo 
  • 三谷恵子「境界を描く ―ボスニア出身作家たちの作品に見るボスニア像―」『ロシア・東欧研究』第42号、ロシア・東欧学会、2013年、17-31頁、2024年8月3日閲覧 

関連文献

  • イボ・アンドリッチ 著、山崎洋, 山崎佳代子, 田中一生 訳『イェレナ、いない女 他十三篇』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2020年。 
  • リチャード・オヴェンデン(英語版) 著、五十嵐加奈子 訳『攻撃される知識の歴史(英語版)』柏書房、2022年。 (原書 Richard Ovenden (2020), Burning the Books 
  • 奥彩子, 西成彦, 沼野充義 編『東欧の想像力 現代東欧文学ガイド』松籟社、2016年。 
  • 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店〈岩波新書〉、1996年。 
  • フアン・ゴイティローソ 著、山道佳子 訳『サラエヴォ・ノート』みすず書房、1994年。 (原書 Juan Goytisolo (1993), Cuaderno de Sarajevo 
  • スーザン・ソンタグ 著、富山太佳夫 訳『サラエボで、ゴドーを待ちながら』みすず書房、2012年。 (原書 Susan Sontag (2001), Where the Stress Falls 
  • ペタル二世ペトロビッチ=ニェゴシュ 著、田中一生, 山崎洋 訳『山の花環 小宇宙の光』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2020年。 

関連項目

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外部リンク

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